「響きを聴く」ような時です。
響き、という言葉を私たちはごく普通に使いますが、
ストレートに「音を聴く」ということと
「響きを聴く」のとは、ちょっとちがいます。
「響」は、こだまや反応や関係といった、
「間接的に聞こえる音」「反応して出る音」
のようなものを指すことばであるようです。
鐘をついたその瞬間にも音は出ますが、
もう撞木を話してしまっても、
鐘は音を出し続けています。
「響き」は、そんなふうに、
直接的な働きかけのあとにもしばらく残って
あの瞬間に撞木が鐘を衝いたのだということを、知らせ続けます。
今週、あなたとだれかの間に、
そんな「響きを聴く」ような出来事が起こりそうです。
お互いがお互いに対して働きかけたことが、
そのあとまで、不思議な響きを拡げてゆくのです。
鐘をならしたのは撞木ですが、
鳴っている音は、鐘自身が元々持っていた可能性としての音
と言えるかもしれません。
ピアノの音は、ピアノが持っている音であり、
手が出している音ではありません。
私たちが他者に働きかけたときも
そういうことが、よく起こります。
相手から出てくる「響き」は、
自分の働きかけの結果ではあっても
「自分の音」ではない、ということです。
だからこそ
人が人に働きかけるということには
無限の面白さがある、ということなんだろうと思います。