石井ゆかり@筋トレの週報です。
『星読み』もよろしく!

2017/7/10-7/16 獅子座の空模様

「犠牲を払ってもらう」ことと
「迷惑をかける」ことは
似ているようで、決定的に違う部分があります。
「犠牲」は、もともと、
神様に祈るときにささげる、いけにえのことです。
もし、神様がいけにえを「受け取って」くれなかったら、
いけにえを捧げた人の祈りは「拒否された」ことになってしまいますから
大変、辛いのです。
たとえば、願い事を呟きながらお賽銭をポンと投げたとき、
それが賽銭箱に跳ね返されて自分の手の中に戻ってきたら
たぶん、少しはぎょっとしてしまうでしょう。
逆に、奮発して、思い切ってなげこんだ500円玉が
ちゃんと賽銭箱に吸い込まれてくれたら、
「勿体ない」などとは思わずに、
「よかった、願いはちゃんと叶いそうだ!」
と思えるに違いありません。

「犠牲」「いけにえ」等という言葉は
それ自体で見ると何かコワイもののように見えるかもしれませんが
私たちは実際、日々の生活の中で
他人のために多くの犠牲を払い、
また、人からも、多くの犠牲を払ってもらっています。
そのプロセスの中で、なんとなく
「迷惑をかけてしまったな」と申し訳なくなることもあるわけですが
「迷惑」なのか、それとも、
祈りや愛や崇敬を含んだ「犠牲を払う」行為なのかで、
その意味は大いに違ってくるだろうと思うのです。

誰かが犠牲を払ってくれたら、
それは、神様に捧げられたお供えのように
まるっと受け取るのが、相手にとっても、喜びであるはずです。
なぜなら、相手の心に、何らかの愛や希望や祈りがあるからです。
その祈りを自分がもし、
神様のように叶えてあげられるわけではなかったとしても、
多分、「犠牲」を受け取ったのは、
あなたのようであなたではなく、
相手から見ると「世界全体に捧げた犠牲」のような意味を持っているんだろうと思うのです。
あるいは逆に、あなたが犠牲を払う場合でも、それは同じで
あなたのなかになんらかの願いや理想、崇敬の念や愛などの、意志や気持ちがあるなら
相手に受け取ってもらうことは、「世界に受け取ってもらう」ようなことで
素晴らしい意味を持っているんだろうと思います。